山形県 ランプ屋さんの話と荘内大祭の謎
昨日、鶴岡に行ったついでに、知り合いの「森茂八(もりもはち)商店」という荒物屋さんを訪ねました。鶴ヶ岡城だった鶴岡公園に近い、江戸時代から続く老舗です。しかし若い社長はなぜかランプにこだわり、店中に各種のランプを並べていました。いくつかは点灯中。夏だというのに、薄暗い店内に炎が揺らめいていました。暑くてかなわないと、にわかランプ屋さんの社長の母親がぼやいていましたが。 ![]() ![]() ランプには思い出はあります。ぼくの母方の祖父母は、フィリピンから引き揚げた後、福島県双葉町の山中に開墾に入りました。電気のない小屋のような家にランプをつるし、囲炉裏で煮炊きをする暮らしを昭和30年代まで続けていました。夜、トランジスタラジオを聴きながら、ランプの光が届く狭い円の中にみんなが集まっているというのが、懐かしい田舎の記憶です。生家の、津波でながされた父の元の家にはあまり思い入れがないのですが。 さて、市内には来週にせまった荘内大祭ののぼりが立ち並んでいました。祭りについては以前書いた通り、明治10年に藩主を慕う人々によって大名行列が復元されたのが始まりです。こんな暑いさなかにと思いましたが、お盆にやること意味があるわけです。 この祭りの前夜祭として、実は祭りの冒頭に不思議な行事があります。それは、徳川家康の長男である信康への参拝です。歴代藩主の菩提を弔うよりも前に、この法要があるのです。 大祭のパンフレットによると、藩主酒井家の初代忠次が、信康の最期を見届けたため、転封のたびに信康の廟を建てたのだとあります。信康の最期とは? 信康の妻は、織田信長の娘徳姫です。一説によると、この徳姫と、今川義元の姪である信康の母とが仲が悪かった。徳姫は信長にあてて、姑の悪口と、夫が味方をしてくれない不満を書きつづり、たまたま信長のもとに使いに行く忠次に託しました。徳川四天王の一人で無骨な忠次は、馬鹿正直にその手紙を信長に届け、「これは真実か」と問われても、ハイと答えるばかりだったとか。 それがきっかけで、信康は信長の命で処刑されることになりました。家康の忠誠心を試すためだったと言われています。 この話が本当だったとしても、忠次は主君からとがめられることもなかったようです。しかし、彼は後悔と恥ずかしさで後半生を送ったのではないでしょうか。いや、昔の人は祟りを恐れていました。自分の責任で死なせてしまった人の祟りならなおさらです。信康の霊を懇ろに慰めるべし、これが酒井家の秘かな家訓だったとしても不思議ではありません。 | |
作成者 |
|
---|
ひとこと数:3
ページ:[1] 全部見る
関雅行さん[1199] | 2013-08-08 11:19:56 |
|
hamakenさん[1523] | 2013-08-09 10:02:45 ランプ屋さんこと森茂八商店のホームページがあります。おもしろいのでぜひごらんください。笠や籠、箕など、あまり売れないものでも、技術がなくならないように一定の数を買って支えるようなこともしています。一部は「庄内映画村」で使われたり、時代劇の小道具になったりしているのではないでしょうか。 |
|
カメ吉さん[1532] | 2013-08-09 10:54:59 森茂八商店のホームページ 覗いてきました。 |
ひとことを発言するには、同好会に参加してください。
信康の話、戦国の世とはいえお家のために実子に切腹を命じるとは・・・。他に家康と信康の不仲説もあるようですが、何れにせよ、この非情さがあったこらこそ二百数十年間幕藩体制が維持できたんでしょうね。