15 「きみは、踊りに向いている」(2)
「ぼくは、踊りは好きだ。でもね、ぼくは舞踊家になりたいとは思わない。舞踊の評論はやりたいけれど……」
原田は、かねてからの自分の希望を奥平に打ち明けた。 実は、原田は、国立音楽学校に入学する少し前に、小寺融吉という四三歳の舞踊学者に弟子入りしていた。早稲田大学教授である小寺は、舞踊についての評論活動を活発に行っていた。早稲田大学の前身である東京専門学校に文学科を創設した坪内逍遥のもとで、文学、演劇論、舞踊論などを学んだ小寺は、日本の舞踊の研究を好んだ。原田は、『舞踊の美学的研究』をはじめ、小寺の著書を何冊も読み漁っていた。 小寺の著書には、能や日本舞踊などの文化的背景、歴史的背景だけでなく、身体運用法をはじめ、細部の所作にいたるまで、非常に克明に記されている。舞踊家ではなく、学者でありながら、舞踊の細部まで理解していることに原田は感心し、その評論に心酔した。 そして小寺の住所を調べ、自宅を訪ね、「弟子にしてください」と申し出たのだった。大学教授に弟子入りするという発想は奇妙だが、粋人である小寺は、この少年に魅力を感じ、自宅への出入りを許した。小寺融吉は、まだ舞踊をかじり始めたばかりの原田に、どれだけの才能を予感したかは定かではないが、家族同然に原田を受け入れた原田が遊びに行くと歓迎してくれた。 気さくな性格の小寺のもとには、新進気鋭の学者たちが数多く集い、中でも、折口信夫(しのぶ)は、よく小寺家に出入りしていた。 折口信夫は、師である柳田国男とともに、民俗学の学問的体系を築きつつあったが、同時に、民俗学的国文学や日本芸能史論という柳田国男とは異なる分野も開拓していた。しかも、歌人であり、詩人であり、国文学者であり、その才能の広がりは計り知れない。 「原田君、こちらが、折口信夫さんだ」 ある日、原田が、小寺家に行くと、小寺融吉は、そういって五〇歳前後の男性を紹介した。舞踊の本を好んで読んでいた原田は、折口の名を承知していた。 「踊りの勉強をしている原田君です」 そう小寺が紹介しすると、折口は、ニコニコしながら、深々とお辞儀をした。 「まあ、そうですか。折口と申します。よろしくお願いいたします」 小寺よりずいぶん年上の大学者にこんなにていねいにあいさつをされると、どう返してよいものか、とまどってしまう。原田は、ただひたすら折口より低く頭を下げるしかなかった。 「それで、琉球はどうでしたか?」 小寺は、話の続きを促すように、折口に語りかけた。 「いやいや、琉球の神様は本当におもしろい。古代の信仰が脈々と受け継がれているんですね」 「琉球舞踊は、その象徴ですね」 「はい、その通りです」 「御前風(ぐじんふう)のような宮廷舞踊もすばらしいが、やはり民謡のなかに見るべきものが多いですよね」 原田は、かしこまって、小寺と折口の会話を聞いていた。琉球には、そんなにすばらしい踊りがあるのか。原田は、そんな踊りを見てみたいと思った。 小寺や折口たちの会話には理解できない部分も多かったが、民俗学や舞踊論、芸能史などの話を聞くことがとても楽しかった。 “いつか、こうした先生たちときちんと話せるような素養を身につけたい” 原田は、そんな思いを抱くのだった。 「踊りを習いながら、評論家をめざせばいいじゃないか」 評論家になりたいという原田の言葉に対し奥平は、そう言った。 それもそうだと原田は思った。評論をするにしても、踊りが実際に踊れるというのは強みになる。 「君は、独特の身のこなしをする。君の身体は、普通とは違うよ。踊りに向いていると思う」 その言葉に説得力は感じなかったが、奥平なりの審美眼というものがあるのだろうと原田は解釈することにした。自分の好きなものに向いているといわれて悪い気はしない。 「じゃあ君、手伝ってくれるのかい?」 原田は、遠慮がちにそう言った。自分から積極的に行動することは苦手だった。しかし、奥平には、物事をどんどん進めようとするせっかちなところがある。原田はそのエネルギーを分けてほしかった。 「もちろんぼくから言い出したんだから手伝うよ」と奥平はきっぱり言った。 「よし、じゃあ、やってみよう」 自信はないが、少しだけ目の前に目標が見えたような気が原田はした。 |
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