朝顔 完
嵩は、昨晩、綾と逢った灯台付近に、一人佇んでいた。
まだ明けやらぬ周囲は薄暗く、濃紺の空には、明けの明星がひと際明るく輝いていた。 綾をうちまで送って行ったあと、高木屋の部屋に戻った嵩は、結局、一睡もできずにいた。 一刻も早く、綾に逢いたい。 綾の、あの、たおやかな、優しい笑顔を見たい。 そして、その、しなやかな身体を抱き締めたい。 嵩は、高ぶる想いを抑えられずに、港に出たのだった。 綾・・・・ 僕は、全力で、君を幸せにする どんなことがあっても 幸せにする 一緒に、生きて行こう 一緒に・・・ 綾・・・・ 愛している 心から・・・・ 心から、君を愛している・・・・ 嵩は、これから、ひとつずつ片付けていかなければならない苦難を思ったが、大丈夫!と、自分に言い聞かせた。 大丈夫 時間を掛けて、解決していこう きっと、理解を得られる きっと・・・・ きっと・・・・ 周囲が急に明るくなった。 いつの間にか、太陽が昇ってきた。 嵩は、もう一度、その太陽に向かって、誓った。 綾を、必ず、幸せにする 必ず・・・ と、どこからか、声が聞こえた。 何やら、自分を呼んでいるような気がした。 耳を澄ませた。 「・・・・専務さーん・・・・」 やはり、自分を呼ぶ声だった。 目を凝らすと、遠くに、行ったり来たりしている人影が見えた。 高木屋の人間だった。 「ここでーす、 何ですかあ~?」 嵩は、その人影に向かって、手を振りながら大声で答えた。 嵩の声に気がついたその人間が、こっち、こっち、と手招きした。 嵩は、首をかしげながら走り寄った。 その人影も、嵩に向かって駆けて来た。 「専務さん! ハアハア・・・探しましたよ・・」 息も切れ切れに嵩を探していたのは、妙子の夫の敦だった。 「どうかしましたか?」 「専務さん・・・すぐに・・・父のところに・・・」 「ご隠居さんのところに、ですか?」 「そうです、急いで行って下さい!」 「どうしたんです?」 「・・・・綾ちゃんが・・・」 「綾さんが?」 「はい・・・綾ちゃんが・・・」 「敦さん! 綾がどうしたと言うのですかっ!」 「専務さん、とにかく、話は父から・・・」 嵩は、敦を突き飛ばさん勢いで、隠居の為夫のうちへ駆け出した。 為夫の隠居部屋には、山清の社長を始め、女将、そして、妙子など、旅館の面々が集まっていた。 ゼイゼイと息を切らせて、駆け込んできた嵩を、みなが一斉に振り返った。 「ご隠居さん! 綾が・・・綾が、どうしたんです!?」 為夫は、その手に持っていた便せんを嵩にそっと手渡すと、ポツリと言った。 「綾は、お四国さんに出よりました・・・・」 「お四国?!」 「四国巡礼のことですよ」 女将が、横から口添えした。 「巡礼っ?!」 嵩が叫んだ。 「そうです・・・巡礼の旅に出ましたんや」 為夫が、静かに言った。 嵩は、手渡された便せんを手にしたまま、しばらく硬直していた。 思考回路が全て切断されたかの如く、ひと言も言葉を発しなかった。 が、やがて、少しづつ、正気を取り戻したのか、やおら便せんの文字に視線を落とした。 手紙には、綾の人柄を偲ばせるような、柔らかで、優しい文字で以て、高木屋の人々に向けての、今まで世話になった感謝の言葉と、そして、挨拶もなく家を出る非礼に対しての詫びが、綿々と綴られていた。 そして、最後に、為夫から、嵩に伝えて欲しいと、前置きして、嵩宛ての言葉が、短く記されていた。 ・・・・ご隠居様から、お伝え下さいますようお願い申し上げます。 嵩様におかれましては、ご自分の歩むべく道を、もうニ度と迷うことなく、お進み下さいますように、と。 嵩は、手紙をわし掴みにすると、自分を遠巻きに囲んで見ていた高木屋の人々に向かって叫んだ。 「こんなこと、信じないっ! 僕は、信じない! 信じるもんか! 信じろと言っても、信じないっ!」 人々は、目を伏せた。 「ね、そうでしょ?! こんなことって・・・ これからと言う時に、こんなことって・・・」 嵩が山清の社長に詰め寄った。 「社長! そう思いませんか! どうしてこんなことを!」 山清の社長も、黙って、ただ、目を伏せるばかりだった。 「皆さん、なぜ、黙っている! なぜ! そうだ! 僕、追いかけますっ! 女性の足だ、まだ、そう遠くへは行っていない 遍路道って、どっちなんですか? 西ですか? 東ですか? どっちなんですか?」 嵩は、敦の身体を揺さぶって、道を尋ねた。 「お願いです、お願い! 教えて下さいっ! どっちなんですか? 綾は、どっちの方向に向かって行ったんですか?」 敦も、目を逸らし、ただ沈黙するばかりだった。 「何で教えてくれないんだ 何でだーっ!」 「・・・・・・」 「解った、もういい、一人で行く 一人で探しに行きます どいて下さい!」 「お待ちなさいっ!」 女将の鋭い声が響いた。 驚いた嵩が足を止めた。 「専務さん・・・どうぞ、お待ち下さい・・・」 女将は、今度は、嵩に優しく言った。 「専務さん・・・お四国に出る、言う事は、ほれはもう、よ っぽどの覚悟を持った人間しかできんことなんです 専務さん、どうか、あの子の気持ちを、理解してやって下 さい どうか、無駄にせんといてやって下さい」 「女将さん・・・」 「どんな思いで、専務さんを残して姿を消したのか、その 気持ちを、どうか、どうか、汲んでやって下さい」 「女将さん・・・でも・・・僕は、どうすれば・・・ どうすれば・・・」 「専務さんには、おやりにならんといかん、大事なことが、 これから先、待ってはります これは、ほかの人にはできへんことなんです 専務さんやからこそ、信頼して、専務さんやからこそ、そ のお力を信じて、みながついて行こうとしてはるんです そんな、何百人、何千人もの方たちの思いを、個人的な感 情だけで以て、ないがしろにしてしもうたらあきません 綾も、これから先、どこか遠くで、専務さんのご活躍を祈 っているに違いありません あの子の為にも、どうか、どうか、ここは、ひとつ、黙っ て、御影にお帰り下さい そして、綾の手紙にもあったように、本来の、行くべき 道をお進み下さい どうか、お願い申し上げます」 嵩は、女将の言葉を黙って聞いていた。 だが、やがて、力なくその場に崩れた。 そして、人目も憚らず、号泣した。 周りの者たちは、誰一人として、そんな嵩に声を掛けられず、ただ、黙って見守るばかりだった。 それから45年後・・・・ 「へえ~ ほんとに小さな漁村なんだねえ」 「ええ、私も何十年かぶりよ、ここに来たの」 「え!そうなの?」 「小学校4年の時だったかな、もともと折り合いの悪かった 父とおばばちゃまとの仲が決裂してね うちの一家はあの旅館を出たの 結局、叔父が跡を継いで、今は、その子供、つまり、従兄 弟の代になってるのね いえ、従兄弟の子供の代かしら 母の話だと、旅館は廃業して、料理屋になってるとか 祖父も祖母も、とっくに亡くなって、高木屋の周辺も区画 整理で様変わりしたみたいだし・・・ あ、ホラ、あそこ、あの、住宅が立ち並んでるとこ、あそ こに、祖父が建てた劇場があったのよ」 「ああ、浄瑠璃のおさらい会やってたとこだね」 今年、52になったゆきえは、夫と一緒に、生まれ故郷の徳島の村を、東京からはるばる訪れていた。 「ねえ、ところで、その綾さんって人、結局、四国巡礼に 出て、どうなったの?」 「それがね、行方知れずのままなの・・・」 「そうなんだ・・・」 「専務さんも、2年前に亡くなったしね・・・・」 「嵩さん、だね・・・でも、どっかで聞いたことがあるな その名前」 「そりゃそうよ、あの、杉山嵩よ」 「杉・・・・ええっ! ちょっと前まで経団連の会長だった、あの杉山さん?」 「そう」 「そっかあ 泣く子も黙ると言われた、あの杉山元会長に、そんなロマ ンスがあったとはねえ」 「杉山さん、現役、退いてから、毎年、四国八十八か所巡り をしていたらしい 日経への寄稿文で読んだことがあったわ」 「探し続けていたんだね・・・・綾さんを・・・」 「そうだと思う」 あ、と、ゆきえは足を止めた。 或る一軒の玄関先に、みごとな朝顔棚を見つけたのだ。 ゆきえは、しばらくその朝顔を見つめていた。 「ねえ、僕、車に戻って、ちょっとひと眠りするよ 君はもう少し、ゆっくりするといい」 「ええ、そうする」 ゆきえは、朝顔棚に近寄った。 そして、青、赤紫、ピンクと、美しく咲き並ぶ花を、しばらく眺めていた。 やがてちょっと微笑むと、心の中だけで、そっと花を数え始めた。 ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・・ 「朝顔」 完 |
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ひとこと数:2
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関雅行さん[1199] | 2012-01-04 07:48:06 |
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佐和子さん[1268] | 2012-01-04 09:21:02 お読み頂きありがとうございました。 |
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> 心の中だけで、そっと、花を数え始めた。
ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・・
終わり方が、45年前と重なって素敵ですね!