夏つばき
梅雨闇に水面くつれて夢たける 愚聴風
「沙羅(さら)さん、それそんなに無理して僥(たわ)めてはダメ、もっと…」 「先生、この枝が思わぬ方向に廻ってしまうのです、この癖が…」 「この夏つばきが過去にどんな成長をしてきたのか知りませんが、その癖も自然のものとしてあなたが呑み込んで、その上で生かしてあげるように全体を創らねばなりません。決して無理しないようにね」 「そう言えば先生がいつも仰るの『華は花に倣(なら)え、樹木は樹木に倣(なら)え』でしたね」 「分っていればりりのよヽあなたのその素直さが佳いわ」 お花の師匠である由布(ゆふ)は弟子の沙羅の後ろへ回り、輪郭のはっきりしない沙羅の肩口からそっと手をさし入れ、乳房を優しく愛撫した。 沙羅にとってそれは、極く自然のことのように思われた。そして、自ら帯を解いていたのであった。彼女には、白い肩から肉付き 良い胸にかけて、ひとに語りかけずにはおかない危うい輪郭があった。 ![]() にも似た感覚を抑えるのに必死だった。 大学を卒業し、その後平凡な結婚生活をし、一児をもうけ、夫と幸せに暮らしている。 ある時、学生時代の華道部の友人に代官山の駅で出会あい、また華道をやる気になったのである。そして近くの師匠・由布のところへ月に二回程かよっていた。花を前にすると学生時代に帰ったように、何とない心のときめきを覚えるのが好きだった。 「沙羅さん、この肩から胸へかけてのあなたの線て、何か私に無いものを語っているように思うの」 「あら、先生…わたくしなんか」 「あなたの生けたお花のなよやかな芯の動きが、水盤に張った水面に映るでしょう?それがあなたの…この肩から胸への線なのよ」 白い肩からふくよかな胸にかけて撫で下ろす由布の掌に、梅雨どきのじっとりと汗ばんだ沙羅の肌は多くを語って止むことがなかった。やがて由布も帯を解いた。 「それでね、水に写ったこの美しいあなたの化身、それが花なのよ、でもそこで止まってしまってはダメ、その向こう側につなげなきや。」 「むこうがわ‥ですか」 「向こう側は宇宙空間で、あなたの、いいえ、お花の本当の生命が流れ出して‥ずうっと吸収され続けているの。宇宙空間によ、留まることなくね……昔の多くの宗匠達が観ようとしても観えなかった世界よ、あなたはそれを………」 「先生、もっと愛して、沙羅のこと、私を僥(たわ)めて、もっと、無理なくらいに」 学生時代の感覚が甦ってきた沙羅は、夫を受け入れる匣(こばこ)とは別の匣を持っていると思った。 「そこにあなた自身を同化させることなのよ、宗匠達が求めても求められなかったのは、同化するために自己を捨てきれなかったからなの。」 沙羅はそれよりも由布と同化したかった。由布のために己を捨てきりたかった。堅炭(かたずみ)を叩いたときの澄んだ音のような昂まる感覚と共に、由布と沙羅の肉と肉が溶け合うことを求めた。 由布にも己を捨ててもらいたかった。今はそこにこそ「天・地・人」の合一があると思った。 しかしヽ二人の間に官能の糸がピンと張られれば張られる程、乖離のフィルムが間に挟まっているように思えた。 沙羅と由布を写す水面が鏡になって、それが研ぎ澄まされればされるほど相手の容ちは明確さを欠いたのであった。 沙羅の見た水面には、僥(たわ)められた沙羅自身の裸身と、うち捨てられた夏つばきとが写っていた。沙羅の肉は充たされているも、何か水盤に漂う根を喪った萍(うきぐさ)のように思えた。沙羅はそれでも良いと思った。 「沙羅は二つの匝を抱いて生きて行くんだわ、これから…」 次第に遠のいて行く意識の中で、沙羅はそう呟いたに見えたが由布には聞き取れなかった。 水面は重なり合ったニ人の裸身と夏つばきを写し、その向こう側にはもう大きな実をつけた庭の青梅が写っていた。昼下がり、梅雨の雨はしとどに、そして冥(くら)く閑(しず)かに二人を包んだ。 了 ![]() 山地に自生し、古来より庭木としでその清楚な容姿を愛でられた。別名「沙羅」 |
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