最終回 シーズー犬「シシ丸」 いつもキミが、そばにいた
P.S.
シシが亡くなって以来、私は心が虚ろになるというのはこういうことなのか、という思いが募る。会社の行き帰りにバスで病院の前を通り過ぎると、今でも悔しさや悲しさがない交ぜになって複雑な気持ちになった。家の窓際には、いろいろな場所で撮ったいろいろな表情のシシ君の写真が飾ってあるが、なぜか、まともに見ることができない。ボンヤリしている時間には、シシ君の元気だったころの姿が頭をよぎり、ジワッと涙があふれてきたりする。情けない。父親や姪から「まさか、今でもシシ君のことでクヨクヨしたりしてないでしょ」と言われると、もちろん、と答えるのだが、本音はまったく逆だ。 賢かったシェパードの「エル」に対してとは違う思い入れが、間違いなくある。それは私の年齢のせいもあるだろうし、記憶というものはどんどん風化していくものだから、そのせいもあるだろう。シシが死んだのは、ついこの間のこと、まだまだ生前の記憶が生々し過ぎる。 シシをひと言で形容するのはむずかしいが、ほかの犬に比べて人一倍(?)性格のよさ、愛嬌のよさ、人なつこさが際立っていたことだろうか。一緒に遊んでいた時は、このことで随分悩まされ、手を焼いたのに、今となっては叱ることもできない。あのころが懐かしい。散歩に連れて行くのは面倒と思いながら出かけたこともあったが、私がシシに遊んでもらっていたのだという思いが強くなっている。シシは私の不平不満をすべて飲み込んでくれた癒しの犬、家族のなかでも最上位にランクされるパートナーだった。そんな言い方をすると、大げさ過ぎるだろうか。家族から疎まれるだろうか。 あとがきに代えて いつでも会える 『いつでも会える』(学研刊)という本をご存知ですか? 飼い主の女の子とワンちゃんの、心温まる、それでいて涙なしには読めない名作です。毎日、楽しく暮らしていたひとりと一匹に、突然、不幸が訪れます。飼い主の女の子が、天に召されてしまうのです。悲しくて、悲しくて、ワンちゃんはどうして女の子が目の前から消えてしまったのか、ずっと、ずっと考えながら、待ち続けます。それでも……、女の子は戻ってきません。 やがてワンちゃんは、女の子との楽しかった日々を思い起こします。そして天国で、ふたりはふたたび楽しい日々を……。 人間と犬の寿命を考えれば、犬が先立つと考えるのが自然です。私とシシのケースも、そう考えれば理に叶っています。『いつでも会える』は、飼い主が先立ってしまうという逆転のストーリーでしたが、犬の目線で犬の気持ちを人間の言葉に置き換えることにより、犬と人との信頼関係のすばらしさ、愛することの大切さを訴える構成が涙を誘ったといえるでしょう。 ![]() しかし、犬が先立つのが自然、とわかっているのに、パートナーとして暮らした愛犬との日々を思い起こして涙ぐむ飼い主は少なくありません。これは、人間の犬に対する信頼の絆ともいえるものです。チャッピーのお母さんがそうであったように、私も今、同じ思いに駆られています。 犬に先立たれた飼い主のことを考える時、私には不思議に思えることがあります。それは「悲しいから」すぐに次の犬を飼ってしまう人と、悲しすぎて「もう、二度と飼わない」と考える人に分かれてしまうことです。チャッピーのお母さんは、すぐに次の犬を飼いました。キャバリアではなく、ヨーキーです。それも今では三頭も。でもまたいつか、キャバリアを飼いたいと言っていました。 弟の家族も犬を飼い続けており、それまで飼っていた犬が亡くなってしばらくすると、新しい子犬を飼い始めます。でも、彼らにはある種の哲学があって、飼っていた犬を思い出さないよう同じ犬種は決して飼いません。 私はといえば、しばらくはシシ君との楽しかった思い出に浸ろうと思っています。父親から電話がかかってきて、「どうだ、少しは落ち着いたか。もう犬は飼わないのか」と聞かれて、思わず「当分はね」と答えてしまった時、聞いていた娘に「当分? 何を言ってるの。ずーっと、でしょ」と口をはさまれて、しどろもどろになりましたが。 生き物を飼うには、「命あるものの死」を直視する覚悟がなければなりません。恥ずかしいことに、この年になっても私はうろたえました。でも、私は別にペットロス症候群ではありません。かりに、悲しんでいるのがまさしくペットロスの証拠だと言われたら、「私は明るいペットロスだ」と答えることにします。 時間の経過が、いずれ私の心の傷を癒してくれるはずです。そうしたら、もう一度公園に出向き、昔の仲間に出会ったら、笑顔で思い出話に花を咲かせようと思っています。 二〇一二年四月吉日 天国のシシ君へ |
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